概要
松川研は熊本大学・工学部・材料応用化学科・物質材料工学教育プログラム(旧マテリアル工学科)に所属する研究室です。2020年に発足しました。研究室の歴史は浅いのですが、主催者である私(松川)は20年以上研究のキャリアがあります。1999年に北大で学位を取得後、アルゴンヌ国立研(米国)、広工大、オークリッジ国立研(米国)、テネシー大(米国)、リソ国立研(デンマーク)、イリノイ大(米国)、東北大・附属金属材料研究所を経て現在に至ります。
専門は原子力材料です。原子力材料の研究コミュニティーは、原子力工学を専攻した科学者と、材料工学を専攻した科学者が半々ぐらいの割合で構成されておりますが、私達は後者です。大学に籍を置く者として、材料工学の基礎の基礎まで掘り下げていくような学術的な研究を行うことが自分達の役割りであると考えております。材料工学の研究と言うと、ものづくりを連想する方が多いと思いますが、私達はものづくり以外の方法で社会貢献しています。原子炉や核融合炉に使用される材料は、核反応によって生じた高速中性子が衝突することによって劣化(脆化)します。それを正確に予測できるようになるためには、材料そのものについて深く知る必要があります。既存の教科書的な知識では対応できない問題です。こうした背景を踏まえて、材料工学の教科書を刷新していくためには何が必要かを意識した基礎研究を行っております。
若い人達へのメッセージ
日本は材料工学が強いとよく言われますが、その理由の一つは日本が電子顕微鏡大国だからです。世界には大手の電子顕微鏡メーカーが3社あり、そのうち2社が日本企業です(日本電子と日立)。材料工学の要は、材料の内部の組織を最適化する技法と知識です。例えば金属材料の強度は内部組織如何で10倍近く向上させることができます。上述した原子力材料の劣化も内部組織の問題です。その内部組織を直接見るためのツールが透過型電子顕微鏡(TEM)です。TEMが市販されたのは1950年代です。それ以降、TEMの発展と共に材料工学も急速に発展し、80年代から90年代にかけて日本は現在の地位を確立しました。このように日本は装置の利と、長い研究の歴史に基づく経験的知識の蓄積、ものづくりに懸ける情熱とプライドによって、現在も世界のトップグループにあるのですが、最近は中国のマンパワーに押されています。学術論文の出版数の比率は、日本を1とすると、ヨーロッパ各国がそれぞれ1、アメリカが4、中国が10です(原子力材料分野の場合)。日本が生き残るためには、若い世代の力が必要です。
松川は海外で10年近く働いておりましたが、そういうことができたのは電子顕微鏡というスキルがあったからです。とりわけ電子顕微鏡の中で試料を引張りながら観察するというマニアックな技法に特化していたのですが、これはマスターするのに相当時間がかかります。日本のように装置が自由に使える環境でないと、なかなか身につきません。かなり忍耐力も要求されますが、これは日本人の専売特許でした。将来海外進出を考えている人は、日本人として生まれてきたアドバンテージを最大限活用してほしいと思います。松川研ではそういう若い人達を支援する教育を心掛けております。
研究スタイル
松川研の研究のキーワードは、“破壊”とそれに至るまでの“寿命”です。“形あるものいつかは壊れる”とよく言いますが、そのメカニズムは未だに大部分がブラックボックスの中にあります。例えば、結晶にどのぐらい力を負荷すれば構造が破綻するのか、その臨界条件の一般則は材料工学(転位論)の教科書のどこにも書いておりません。しかも、そのことに気づいて問題を問題として認識している人は、それほど多くありません。専門家の中でも、ほんの一握りです。このように、わかっているようで実はよくわかっていないことは何か、それを見つけ出すところから研究は始まります。ここがある意味、研究の一番難しいところです。先人達が見つけられなかった問題を見つける訳ですから、言ってみれば先人達との知恵比べです。問題を見つけることができたら、次にその問題を解決するためのアプローチ方法を考えます。多くの場合、先人達はその問題が存在すること自体には気づいてはいたものの、うまく解決することができなかったため教科書に載らず、その一連の試行錯誤の話が長い年月を経て忘れ去られてしまったという状況になっています。ですから研究テーマのヒントは、研究の歴史を調べる中で見つかることが多いです。昔の文献を読みましょう。昔といっても、材料工学の研究の歴史は、その母体となった金属物理学(転位論)まで遡ってもせいぜい100年です。熊大の歴史より短いです。そう考えると、それほど難しいことではないですよね。うまく解決できなかったのは、勘違いが原因であることもありますが、当時の分析装置の性能がボトルネックになっている場合もあります。そのような研究は、歴史的な観点から考えて、今やるべき研究と言えるかもしれません。
研究テーマのヒントを得るための、もう一つの手段は実験です。人間、頭で考えることには限界があります。理詰めで考えれば考える程、誰もが同じ結論に辿り着くというジレンマがあります。実験で予期せぬ結果が得られたとき、それは失敗ではなく、チャンスかもしれません。松川研は理論屋・計算屋ではなく実験屋です。実験で偶然発見した知見を基にして次の展開を考えていきます。それは最初に頭だけで考えていた時には思いつかなかった展開です。独創的な研究はこうやって産まれます。研究ができる人と、勉強ができる人は違うとよく言われますが、その理由の一つがこれです。そしてこれは、日本の材料工学が強い秘密でもありました。だから実験を沢山やりましょう。
研究領域
少し専門的な言い方をすると、松川研が開拓しようとしている研究領域は、転位論と破壊力学という2つの学問体系の狭間にあるニッチな領域です。力を負荷すると、結晶は多くの場合、いきなり破壊するのではなくて、まず変形します。ある程度まで弾性変形(力を除荷すると元に戻る変形)した後、塑性変形(形が元に戻らない永久変形)し、最終的に破壊します。塑性変形の担い手が転位(dislocation)という名の結晶格子欠陥で、結晶が塑性変形するメカニズムを記述する学問体系が転位論(dislocation theory)です。破壊力学は材料力学から派生した学問で、材料の中にクラック(亀裂)が予め存在していることを前提にして、そのクラックがどれだけの速さで進展するのかを数学的(力学的)に計算します。現時点では転位論と破壊力学の間に大きなギャップがあり、そのため材料の寿命を予測するモデルは経験則に終始せざるを得なくなっております。両者の狭間にあるミッシングリンクは、クラックが核発生するメカニズムです。
100年前から現在に至るまで、材料工学における至上課題の一つは強い材料を作ることでした。それが戦争に必要であったことは言うまでもありませんが、高層建築、飛行機や自動車の軽量化・高燃費化にも強い材料が必要です。医療用のインプラントでは逆に、骨の機械的性質に近くなるよう、金属材料の強度を弱くなる方向にデザインします。発電施設に使用する材料の開発においても、高温強度や耐クリープ特性といった、転位に由来する機械的性質が安全マージンを決定します。このような工学的ニーズを背景にして、転位論は金属材料の強度特性を定量的に記述すべく改良が重ねられ、その用途においてはかなり成熟した理論体系となっております。但し、材料がどこまで変形するか、どこまで変形させたら破壊が起こるのかという問題を記述する能力は壊滅的です。これはいつ、どのような条件を満たしたときにクラックが核発生するのか、そのメカニズムが未だに明らかではないためです。モデルは幾つか提案されていますが、実験が困難なため十分検証されておりません。
クラックが核発生する場所は、単結晶であれば結晶の中(結晶粒内:grain interior)ですが、多結晶であれば結晶粒と結晶粒の境目(結晶粒界:grain boundary)です。昔はそこに着目した研究を重点的に行っていましたが、最近は析出物(precipitate)に着目した研究を中心に行っております。析出物に着目した研究は、原子炉の寿命予測という工学的なニーズがあるためです。
原子力材料
松川研では脆化の研究の題材として原子力材料を取り扱っていますが、これは原子力という業界が他の業界と比べて安全管理について社会的な風当りが強く、それ故に材料寿命を予測する研究を重視しているためです。原子炉(軽水炉)や核融合炉において、材料は中性子照射によって脆化しますが、脆化のメカニズムはそれぞれ異なります。核融合炉では、中性子照射によって導入された格子欠陥(点欠陥)がクラスタリングし、それが脆化をもたらします。原子炉でも点欠陥のクラスタは形成しますが、圧力容器(交換不可能な部位、鋼鉄製)の脆化の主な原因は析出物です。中性子照射で生じた点欠陥を媒介にして原子の拡散が促進され、その結果不純物や合金元素がナノサイズの粒子となって析出します。不純物(Cu)の析出についてはかなり昔からモデリングが行われていますが、合金元素(Ni, Si, Mn)の析出については未だ不明な点が多いため研究が遅れています。合金元素の析出物は多くの場合、金属間化合物(G相Ni16Si7Mn6)になることが2015年頃に明らかになりました。松川研では現在、このG相に関する研究を中心に行っております。
析出物が材料中に元々存在するのであれば、析出物においてクラックがどのように核発生するのかを解明すればそれでモデリングは一段落するのですが、原子炉の場合はもう少し話が複雑で、析出物が40年ぐらい経ってからようやく発生します。そのため、現在は析出物が核発生する過程をモデリングするための研究も行っております。当初はクラックの研究のついで程度に考えていたのですが、いざ真剣に考えだすと、やるべきことが山積みでした。今は人手も少ないので、析出物の研究に全力投球している状態です。 核生成理論(nucleation theory)は材料工学だけでなく、薬学・化学・食品学やその他の分野に共通する学際的な研究テーマなので、これはこれで大仕事です。
医療材料
松川研の看板は “原子力材料工学研究室”なのですが、最近医療材料の研究も始めました。原子力材料を医療分野へ応用する研究です。 東北大在籍時代に軽水炉の燃料被覆管の材料についても研究していたのですが、これはジルコニウムという少し特殊な金属です。この金属は中性子を吸収しないという性質があり、これがないと軽水炉は成り立たないということで、軽水炉を実現するために、わざわざジルコニウムの精錬技術が開発されたという歴史的経緯があります。現在でも金属ジルコニウムの需要の85%は原子力です。ジルコニウムは最近、医療分野でチタンの代替材料として注目されています。チタンは生体適合性という観点でベストな金属なのですが、MRI(核磁気共鳴画像法)による画像診断が一般化するにつれて、問題視されるようになりました。チタンは磁化率が大きいため、アーティファクト(影)を生じます。ジルコニウムはチタンよりも磁化率が小さく、それでいて周期律表上でチタンの真下にあるため、化学的性質がチタンとよく似ています。基本的にチタンと同様、腐食に対してとても強い金属なのですが、それ故に少しでも弱いところがあると、そこだけ集中的に腐食が進行するという欠点があります。これは孔食と呼ばれる現象で、これが実用化のボトルネックになっています。孔食の原因は不純物に由来する析出物であることが明らかになっています。生体内とは状況が若干異なりますが、原子力でも腐食の問題は燃料被覆管の寿命に直結しています。原子力の研究で培ったノウハウを応用すれば、問題を解決できるかもしれません。KUMADAIジルコニウムとして実用化できたら嬉しいですね。ライフワークのクラックの研究とは無関係ですが、寄り道を楽しむことは人生を豊かにする基本だと思っています。